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若い人たちのライヴを見に行くこと

最近になって、ようやく僕の娘も乳児から幼児の端くれになり、我が家にも少し時間と気持ちのゆとりができてきたので、僕は若い人たちが出演する黒人音楽系の ライヴイヴェントを月に1,2度は見に行くようになった。


今夜も青山のJANOJAにライヴを見に行く。あまり多くを期待せずに。

僕が若い人たちのライヴを見に行く理由は、おおまかに言って二つある。

一つ目は、まだ日の目を見ぬ煌めく才能の原石を探しに行くこと。当然だけど、近々宝石として世に出て行ける才能にはめったにお目にかかれない。真 のカリスマとはそんな稀有なものだろう。だから、未来のカリスマ探しを主目的にしてしまうと、若い人のライヴを見に行くことは、大抵が失望に終わる。

僕がそれでも若い人たちのライヴを見に行くのは、もう一つの理由があるからだし、そっちのほうは大抵は目的が達成できるからだ。

もう一つの理由とは、若い人たちのギラギラした表現衝動やカタルシスに触れること。つまり「有名になりたいんだあ。」とか「今夜だけは、俺は、 カッコイイといわれたいんだ。モテたいんだあ。」とか、「なんと言われようと、あたしはこういう音楽が大好きなのよ。あたしもまんざら捨てたモンじゃない でしょ。ねえ、どうよ?どうなのよお?!」とか、彼らのそういう「この演奏を聴いてくれよおおおお!!!! 今夜は楽しもうよおおおおおお!!!!」、に 触発されに行くことだ。

こういうパワーは、若い人たちのライヴには、息苦しくなるほど充満しているから、月に1、2度見に行くくらいなら、僕は僕の穏やかで幸せな生活を壊されることもなく、程よく元気にさせてもらえるしお洒落もさせてもらえる。値も安いし。

しかしなあ。歌モノがなあ。若い人たちの黒人音楽系ライヴ、歌モノが大抵つまらんなあ。皆さん、歌も演奏もパワフルで上手な人ばかりなのに、どう もいかんなあ。ウットリ感も、グサッときた感も、泣けちゃった感も薄いなあ。まったく無いわけじゃないんよ。薄いのよ。だから僕は若い出演者さんたちに、 惚れることも愛想を尽かすこともできなくて、気持ちのやり場にマジで困るのよ。

これはやっぱり僕がシンガーで結局は僕も、良い歌を、そして良い歌をさらに引き立てる良い演奏を、聴きたいと心の奥で強く願っているわけから、こう感じてしまうんだろう。

そんで、つい一月程前に、彼らの歌モノのつまらなさ(薄っぺらさ)の理由が、僕にもやっとわかったんよ。それはねえ、とどのつまり彼らはシンガー もバンドのミュージシャンも、彼らのやる黒人系歌モノ曲を”歌”として聴かせるよりも、むしろ”音楽”として聴かせてしまうからなんよ。大仰にやりすぎな んよ。アカデミックに気取りすぎなんよ。かなり重要なことだよ、これは。

極論を言えば、歌はメロディーとリズムのついた、詩の朗読でありお芝居であるものなんだと思う。シンガーは本来は語り部であり役者であるものなんだとも。歌は浪漫なのだ。

さらに付け加えて極論を言うと、楽器担当の人は職人であり科学者なのだ。音は物理なのだ。

つまらない(薄っぺらい)歌モノをやるバンドのシンガーは音楽の造詣が深くなりすぎて、役者であることを忘れてミュージシャンになってしまってい るのだ。そしてそういうつまらん歌モノのバンドの楽器担当の連中も、自分のバンドのシンガーがステージで役者になることを恥ずかしがり、シンガーは自分た ちと同じミュージシャンであるべきものだと、勘違いしてしまっているんだろうね。

僕に、こういうことを無言のうちに体験学習させてくれた、武蔵野ファンクとあの6月末の晩にJANOJAにいた3番目に出演した女流歌モノ・ユ ニット(丈夫くんを含む)、この二つのユニットに感謝します。あの晩、僕を含むあなたたちの演奏したのは歌じゃない。音楽だった。皆さん、音はメチャク チャに濃いのに、歌モノとしては薄っぺらかった。そして僕も、珍しくあの晩は役者になりきれずにミュージシャンになってしまっていた。不覚! だが、あら ためて大いに歌の勉強になったっす。

さて、今夜見に行くライヴ・イヴェントでは、僕は 歌
を聴くことになるのか?それとも 音楽 を聴くのだろうか?

煌めく才能には会えなくてもいいから、できれば、歌 が聴きたい。